2012年02月27日
努力は虚しい
詩篇127 都上りの歌。ソロモンによる 127:1 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。 127:2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。 以前からよく慣れ親しんできた詩篇の一節である。上記は私が常用している新改訳の表記なのだが、新共同訳を読む機会があった。次のとおりである。 127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。 127:2 朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。 訳が変わると、微妙なニュアンスの違いが出てくるので、今まで気づかなかったメッセージがそこに見えてくる。 127:2 朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。 とある。新改訳では(何度も読んでマンネリ化していることもあって)わからなかったのだが、要は、「朝早くから夜遅くまで寝る間も惜しんで努力して働いても、主ご自身がその働きをしてくださるのでなくては、虚しいだけだ。むしろ、神は、愛する者を、ゆっくり眠らせ休ませてくださる。」これは、世間の常識の価値観とは違う。「自分の力で寝る間も惜しんで努力した者こそ、報われる。」というのが世間の価値観である。だが、聖書は、「努力」を必ずしも美徳とはしない。人の力は虚しい。神ご自身の力による働きこそ、価値があるものとする。 ゼカリヤ4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。 私の今までの人生を振り返るときに、努力して物事が好転したことは一度もない。努力するとたいていろくな目に遭わない。物事がうまく進展する時は、必ず、自分の努力とは無関係に、はっきり言えば「棚からぼたもち」状態で訪れる。確かに、何もしないで手をこまねいていても何も起こらない。何か行動を起こした時に事態が進展するのではあるが、それは決して私の行動の結果としてではなく、私の行動と全く無関係のところから飛び込んでくるのである。ちょうど、バラクがシセラを倒すために決起したが、その時シセラにとどめを刺したのはバラク自身ではなくケニ人へベルの妻ヤエルだったように、だ(士師4章)。何と言うか、神が起こされる「波」があって、それが来た時にうまく乗る、という感じか。下手に努力すると、波に乗り損ねて大怪我をする。 私は今失業中で、受講中の職業訓練も1ヶ月後には終了する。世間の常識ではここで焦って努力を重ねることこそ打開の道だと考えるのだろうけど、私はあえて虚しい努力によらず、「焦慮」せず、「眠り」のうちに安んじていよう。主ご自身がなされるのでなくては、私が何をしてもそれは虚しいのだから。
Posted by fqelgzflcg at 21:46│Comments(0)